「ガソリンスタンドはバイト代がよくってな。あと、洗車もオイル交換もできるし」
「ほんとにクルマが好きなのね」
「っつーか、道具だよ。道具」
「高級車には乗らないの?」
「アッコちゃん、そういうのに興味あんのかい?」
明希子は首を振った。
「そうじゃなくて、南雲さんの立場なら、どんなクルマにでも乗れるはずなのに、って思って」
「ふん」
南雲が鼻先で笑った。
「じつは、いちど手に入れたんだよな、ジャガーXKを。黒いヤツ。サウスドラゴンが軌道に乗って、真っ先に買ったんだ。いいクルマだったな、いや、ほんと」
そこでこんどは意味深な笑みを浮かべた。
「新車がきて2週間目、雨上がりの道を走ってた。夜の11時過ぎだったよ、仕事のストレスもあって飛ばしてた。坂道を上りきり、下りに差しかかったところで、ジャガーの尻が振れた。そのまま大きくスピンして、両サイドが往復ビンタのようにガードレールにぶつかった。がつんがつんがつんがつんと4度もな。まったくひでえありさまだったぜ。ジャガーは廃車だよ。それでも、おれはケガひとつ負わなかった」
明希子はぞっとした。
「思ったよ、どうやらおれには、まだやらなくちゃならないことがありそうだって」
南雲が遥かな表情をした。
「以来、ずっとこのクルマだ。おれに合ってる」
明希子は、彼のちがう一面を垣間見たような気がした。別の面もなにも、もともと南雲のことをよく知らないのだけれど。
「どっかでメシ食ってくか」
南雲が銀座の立体駐車場にクルマをとめた。
「こいつはうちの若いもんにあとでとりにこさせる」
そんな言い方がカタギでないみたいでおかしかった。いや、ほんとにカタギではないのかもしれない。
「一杯やろう。イケる口なんだろ、アッコちゃん」
「そうね。行きましょっか」
明希子は言った。
南雲に案内されたのは有楽町裏のもつ鍋屋だった。
生ビールを飲み、南雲が頼んだ辛子味噌で和えた肉片を食べる。
「ガツっていうんだ。豚肉の胃袋だよ。うまいだろ」
こりこりとした歯ごたえでビールに合う。どこの部位かまでは知りたくないけれど。
馬刺しがきた。おろしたニンニクと醤油で食べる。
「その白いサシが太く入ってるところが、フタエゴ。あばらのうまいところだ」
こちらもこりこりとした歯ざわりで、噛んでいると甘みと旨味が滲み出してくる。
南雲が2杯目の生ビールのジョッキを口に運びながら言った。
「惚れてたのかい?」
「え?」
「あの男にさ」
明希子はぐつぐついうもつ鍋の湯気に包まれながら、一瞬、店のなかの喧騒が遠くなったような気がした。
しばらくして、
「考えてからこたえるようじゃ、惚れてはいないわね」
と言った。
「焼酎にするか?」
明希子がうなずくと、南雲が薩摩焼酎をオンザロックでふたつ頼んだ。